文具資料室






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 H18.10.15 更新

 
 鉛筆のはなし(北海道を中心にして)

日本で初めて工業的に鉛筆を製造したのが真崎仁六氏(三菱鉛筆の祖)であるというのは有名な話であるが、その時の材料が「広島県の黒鉛」「栃木県の粘土」「北海道の木材」であったという。

かつて北海道では、沢山の鉛筆材(鉛筆の軸板)を産出していました。第一次世界大戦により、鉛筆の主要な輸出国であったドイツからの供給が止まり、世界的な鉛筆不足に陥りました。北海道でも旭川などで国産の鉛筆工場や鉛筆材の工場が数多く設立され操業を開始しました。国産の主な鉛筆材はイチイ(北海道では「オンコ」と呼ぶ)と、シナ・ハン・ホオノキ、そしてヒノキ(主に本州)などでした。昭和二十年代末で国産鉛筆材の六割が北海道の木材だったという話がある。ヒノキ以外は北海道が主要な産地であるので大半を北海道材が占めていたのは間違いなさそうである。

以下は道内の鉛筆工場を調査したものであるが、戦前の零細工場の記録などはほとんど残っておらず、兼業で一時的に鉛筆材を製造した事業所については氷山の一角と思われる。 私は西十勝の出身であるが、西十勝では鉛筆材の話を聞かない。イチイの木の産地は阿寒・北見周辺、十勝と釧路支庁の境などが主要な分布域であったようである。そのため北見と十勝の情報が多いのかもしれない。高級鉛筆にはイチイとホオノキ、ヒノキが用いられました。

斜里町

戦前、イチイの木の軸板工場が沢山ありました。土橋木材工業の土橋勝利氏が詳細に調査をされており、氏の調査には記録に残る大半の業者が網羅されている。

大浦木工所(大正3年創業)
三井木工所(大正4年創業)
伊藤木工所(大正5年創業)
兼佐木工所(大正6年創業)
石川木工所(大正6年創業)
内田木工所(大正6年創業)
加藤木工所(大正6年創業)
有坂・小林木工所(大正6年創業)
服部木工所(大正8年創業)
土橋木材工業(大正9年創業)
小林一馬木工所(大正10年創業)
梅新木工所(大正10年創業)
近藤木工所(大正期創業)
鶴巻木工所(大正期創業)
佐藤木工所(大正期創業)
辻木工所(大正12年創業)
大平・燒リ木工所(大正13年創業)


旭川市

丸星工業株式会社(大正5年創業)
創業者はヨーロッパに渡るなどして色鉛筆の勉強をしたが、若くして亡くなった。いわゆる「市村文具」のことで、大正12年8月12日の旭川新聞によれば、主な製品は「ホマレ」鉛筆、その他「ハッピー」「北斗」「百二十番」があった。ペン軸なども製造していた。大正14年5月には「株式会社丸星鉛筆工場」で商業登記されている。地元文具店主によれば「第七師団にも納入するなど繁盛したが、トンボなど大手との競争には勝てなかった」との事である。

山下鉛筆製材所(大正5年創業)
軸版代金の回収に梃子摺り、東京に自社の鉛筆工場を作る。労働争議が発生した。旭川の工場は昭和3年頃から6年頃に何度か火事になっている。カーボーイという商標で輸出が主力。

作井鉛筆工場(大正10年創業)
・・・新旭川市史より。木材の街だけあって多様な木材産業が発達していた。この他大正10年の新聞に佐藤鉛筆工場というのが載っている。

留萌(方面?)

・・・旭川市内の聞き取りにより鉛筆工場の存在を教えてもらう。詳細不明。

芦別市

・・・市内の聞き取りにより鉛材を製造した工場の存在を教えてもらう。井上さんと言う方。現在は工場そのものが廃業。上芦別の井上木材か。

北見市

「北見現代史」によると昭和6年に谷虎雄が「谷鉛材工業」を経営。昭和21年に至って、谷が「北海鉛材梶vの社長を兼ね、昭和28年に「リリー鉛筆梶vに改組。昭和29年当時、北海道で製材からの完成まで全工程を持つ唯一の鉛筆工場だった。(北海日日新聞より)翌、30年には廃業し、31年に「谷鉛筆軸版工業梶vとなった。
北見も古くから木材の町として有名であったので、他にも工場があったと思う。

津別町

竹内鉛材・・・新町、昭和6年の進出。東京のアイボール鉛筆取材の折「北海道の竹内さん」という名が出たのでこの業者と思う。
国安木材梶E・・本岐、昭和29年の町史で、生産品目が「製材、鉛材」とある。平成10年代に工場は廃業か。

湧別町

大沢木工場・・・昭和13年、大澤義時氏が計呂地から芭露市街に転居し大沢木工場を創業。昭和23年頃から鉛筆用の軸版の製造を始める。コーリン鉛筆に軸版を納入。一時期、朱赤の鉛筆は芭露産のみだった(No8600の事か)。センの木が中心。

鍵谷木工場・・・「湧別町史」によると昭和23年創業の鉛材業者とあるが昭和56年までには廃業していた模様。とい

帯広市

十勝鉛筆・・・戦前の国産鉛筆ブランドであるが所在地・会社名等は不明。十勝毎日新聞に広告掲載。
マリモ鉛筆・・・昭和26年に創業するも、開始から数ヶ月で全焼。コロナ鉛筆と報道した新聞があり。もともと軸版業者だったようである。経営者の名が飯山なので浦幌から進出したものか。

池田町

かつて国道沿いに、ハンノキの鉛筆材の木工場が存在。古い絵葉書でも見た記憶がある。芭露の大沢木工場が十勝進出を計画していたのを十勝ワインで有名なワイン町長こと丸谷氏が察知し誘致したもの。昭和33年に進出。最盛期は35-6年頃で、39年には鉛材からチップに転換。その後、木材の多用途化に伴い敷地の狭隘化で昭和45年に利別に移転。当初、コーリン鉛筆とキリン鉛筆が主要な出荷先だった。木材の採集地は、地元郷土史家によると豊頃・浦幌。池田町誌考(1969)によると本別・足寄とある。

陸別町

井出木材株式会社・・・三菱鉛筆の下請けとして昭和26年に創業。かつては国産鉛筆の一割以上の軸板を製造していた。道産材だけでなく、輸入材の加工もしていた。

浦幌町

町史によると戦後、小径木利用の鉛筆材の製材が行われたらしい。土橋氏の記録に昭和9年創業の「飯山木工所」がある。

豊頃町

茂岩市街でKさんと言う人が鉛筆を製造していた工場があったという話がある。足寄の藤田鉛筆が、無縁故引揚者および生活困窮者を対象とする授産事業のため昭和23年に設置したもの。「勝又群司が責任者となり、ハンノキ・シナを材料として鉛筆軸となる板を製造した。」

十勝支庁のHPによると大津に昭和16年、現・阿部鉄工所の近くに「麻生鉛筆工場」が設立。「従業員は20人で、長節・生花宙のハンノキをもって鉛筆軸を製造し、東京・大阪方面に移出していたが、ボイラー室全焼により、3〜4年の操業で廃業した。」とある。

足寄町

昭和15年頃の「全国工場通覧(商工省)」に「北鉛合同製材所」がみえる。代表が飯田恵次とあるので湧別町の業者が進出したものと思われる。土橋氏の記録では昭和12年創業の「足寄鉛筆工場」があり、事業主は「鞄結椏。田鉛筆」となっている。

本別町

戦後、田西製材工場にて鉛筆板を製造。

厚岸町

明治41年創業の「宮城野製材所」跡地に大正5年、星弘策が「合資会社北海鉛筆製材所」を設立したが、大正9年2月廃業。5月に「北海産業合資会社」に改組されたが数年後、火災で廃業。

釧路市

藤島鉛筆製材工場・・・川上町。昭和7年創業で代表は藤島善助とある。昭和10年の「全国工場通覧」に掲載。

寺田木工所・・・旭町。「新釧路市史」では鉛筆材の工場が旭町に存在したという記述があるだけで、業者名については触れていない。昭和10年創業(土橋氏の資料による)。市内の文具店主によると昭和26年頃に、旭橋の近くに「地球鉛筆」の工場があったと記憶しているという。経営者が同じかどうかはわからない。

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